浪合神社

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浪合神社

なみあいじんじゃ

下伊那郡阿智村浪合字宮ヶ原581番

浪合神社

長野県の南端に近い、現在は阿智村と合併をした旧浪合村に建つ浪合神社。
後醍醐天皇の孫の尹良親王を祭神として祀っている。
尹良親王は、南北朝時代に南朝の征夷大将軍として東国まで遠征をしていた。
1424年、上野から三河へ赴く際、北朝側に襲われ、浪合で戦死したという。
神社の手前西側に設けられている丘には、親王の御首が埋められているといわれ、その墓所は宮内庁の管轄となっている。

浪合神社

浪合は豊かな緑に囲まれた山間の土地。
神社は傾斜地に建ち、長い坂道が参道となっている。
過ぎに囲まれた参道を登り、社地までに3つの鳥居。
いづれも明神鳥居で石造となっている。

浪合神社

尹良親王の墓所を左手にして、3つ目の鳥居をくぐると、社地が広がる。
右手には社務所。
左手には尹良親王を供養するために建てられた供養塔、宮内大臣だった渡辺千秋による「尹良親王御旧跡の碑」や、明治天皇の勅使として親王の事蹟調査のために藤原公業が訪れたことを記念する「勅使参向の碑」などが建っている。

浪合神社

社殿は妻入りの拝殿とその背後に本殿。
妻入りの拝殿は、南信濃地域には多く見られ、浪合神社も同じ形式となっている。
棟に鰹木と千木が付けられている。

浪合神社

浪合神社

浪合神社

本殿の形式は、間口の柱間3間、奥行2間の入母屋造。
平入の母屋の前に1間の向拝を付けた素木造。
このような入母屋造の本殿は長野県内では珍しいといわれており、他には伊那市の熱田神社本殿がある。

浪合神社

入母屋造という珍しい建築様式となった理由として、考えられているのは、同じ宮ノ原地区にに尹良親王の墓とされるものがあり、神廟的な面を与えるために考案されたのではないかと言われている。

建物の正面は虹梁を使って吹放しにしており、中央の柱より後ろに神座が設けられている。
扉口は中央柱間にのみで、向拝の間口が主屋の間口より狭い。
このために繁虹梁の端は母屋正面の虹梁をまたぐように乗るという変った手法になっている。

浪合神社

社地西側の尹良親王の御墓。
中央の土が盛られたところからも何本かの木が育っていた。
木々に囲まれ、涼やかな社地内は静かで歴史が偲ばれる。

所在地下伊那郡阿智村浪合字宮ヶ原581番
ホームページなし
祭神尹良大神・八幡大神・諏訪大明神
本殿江戸時代後期
大工小林喜兵衛
建築様式三間社 入母屋造 平入 一間向拝 銅板葺
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