小菅神社
こすげじんじゃ
飯山市大字瑞穂
信濃における修験者の道場
小菅神社は明治維新までは、新義真言宗に属する小菅元隆寺といい、戸隠とともに信濃における修験者の道場として著名な寺だったという。
創建の由来は定かになっておらず、古文書には諸国を回っていた役小角が、この地を訪れた際に修験寺院元隆寺を開き、それが起源だと言われている。
役小角は小菅権現を主神とし、併せて熊野・金峯山(吉野)・白山・立山・山王・走湯・戸隠の7柱の神々を勧請し、祀ったという。
その後、坂上田村麻呂がこの地を訪れ、八所権現本宮や加耶吉利堂などを整備したと伝えられている。
戦国時代には、越後上杉氏の領地として庇護を受けている。
坂上田村麻呂に由来する御堂の跡や、上杉謙信所縁の大石、または弘法大師が杓丈を突いた石など、さまざまな形をしたものが残されている。
江戸時代を過ぎ明治になると、神仏分離によって、小菅社八所大神となり、明治33年には小菅神社と改称した。
小菅神社が建つ飯山市瑞穂地区は、映画「阿弥陀堂便り」の舞台なり、高い山に囲まれた盆地で、神社からもとても見渡しが良い。
一の鳥居は、住居の多い街道に建つ。
そこから急な坂道と、左右に田畑が続き、最初に現れる社殿は入母屋造の仁王門となっている。
もともとは仁王堂と呼ばれ、元禄10年の建築とされている。
里宮の社殿は、1660年に飯山城主の松平氏によって改築されたもの。
現在の建物はすべて大正12年に大きく改修されている。
社地には、石段を上った先に、神楽殿、右手に神輿殿、左手に神馬殿が建っている。
里宮の隣に建っている講堂は、もともとは元隆寺の中之院に属しているものだった。
付近には、南大門や中門、金堂などが建っていたが、戦国時代の武田氏の侵攻でほとんどが焼失してしまい、この講堂も1697年に飯山城主の松平氏によって修復された。
中には阿弥陀三尊像が安置され、7月の中旬には柱松子という祭りがこの場所で奉納される。
奥社の入り口となる鳥居から、社殿まではおよそ1200m。
杉並木に囲まれた石畳は700mほどで、そこからは山道となる。
途中、鎖場もあるので、参拝の際にはそれなりの登山の姿で行きたい。
小菅神社奥社で最初に見られる社殿は、神饌殿。
荒れた入母屋造の小さな社殿だが、この脇には石灯篭が建ち、見上げると奥社が見える。
桁行3間梁間2間の大きな母屋の東と南、西の三方に庇をまわし、北側の庇は岩窟の中になるため略しており、入母屋造妻入の背面の庇を無くした形になっている。
岩に接していない3方向に縁を回しているが、南側は懸造になるので、参道入口にあたる西側に階段をつけ、そこから縁に上るようになっている。
建物の後ろ側1間の母屋庇を内陣とし、それより前方の建物を外陣としている。
外陣となる建物の南側正面は、中央の2間を蔀、左右を引違舞良戸にしている。
外陣西側は中央を板扉、南側を舞良戸、北側を板壁、東側は南を引違舞良戸、次2間を吹放。
これは東側の縁を取り込んで堂内とし、後方にある甘露池への通路としても使えるためだという。
内陣は長押1段分だけ高く張っており、外陣との境は中央2段を嵌め殺して、左右引違格子戸としている。
奥社の南側の蔀や扉にたくさんの落書きが見られます。
「サッカーが上手になりますように」「悔いのない人生が送れますように1998・5・5のりこ」などといった願い事や、「○○ちゃんが好きだー」というような一方的な思いが、刃物や鉛筆で書かれています。
昔から信仰のひとつとして、強い思いを落書きという形であらわす事もあったと聞いていますが、
深い歴史と由緒のある地域の文化財として、大切にしていきたいものなので、参拝される方には、落書きとは違った形で思いを表して欲しいと思います。
所在地 | 飯山市大字瑞穂 |
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ホームページ | なし |
祭神 | 八所権現 |
奥社本殿 | 国指定重要文化財 天正19年(1592)修覆記録 |
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大工 | 小野源之丞政高 |
建築様式 | 懸造 桁行4間 梁間4間 入母屋造 妻入 銅板葺 |
付宮殿 | 永正5年(1425) |
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建築様式 | 桁行2間 梁間2間 入母屋造 妻入 栃葺 2基 |