立川流和四郎の建築
立川流は、江戸時代中期から後期に活躍し、長野県中南信から、関東、京都にまで作品を残した長野県を代表する大工である。
主な建築は、富棟が残した諏訪大社下社、北信にも作品を残している富昌の武水別神社などがある。
立川流の初代、立川和四郎富棟は、代々諏訪地方で桶職をつとめていた塚原忠右衛門泰義の次男として延亨元年(1744)に誕生した。
宝暦7年(1757)本所立川通りの大隈流立川小兵富房について社寺建築を学んだという。
その後に立川姓をゆるされ、富房より「富」の字を受け、独自の曲尺(かね)をもって開いた建築彫刻の一派として立川流、和四郎富棟と名乗った。
矢彦神社
富棟が23歳の時、諏訪で角間町の十王堂を造営したが、当時諏訪では優れた宮彫の技術を持つ大隈流が活躍しており、宮彫を学ぶため再度江戸に出て両国に住む古沢常足について宮彫を学んだという。
明和5年(1768)に帰郷した富棟は帰郷後初の建築として、安永3年(1774)
白岩観音堂を完成させ、以後諏訪地方を中心に活躍の場を広げていく。
諏訪大社下社春宮
立川流の初期は諏訪を中心に、比較的狭い地域に作品を残しているが、2代目富昌の時代には遠方にも建立をするようになり、善光寺(寛政元年1789)や秋葉神社(寛政8)などの建築を残している。
静岡浅間神社の再健の際は、徳川家光が造営した際の社殿を踏襲するにあたり、当時の駿河には彫刻師がいなかったために諏訪の立川和四郎に試作させた上で採用したという文書が残されているという。
諏訪大社下社秋宮
亨和2年(1802)、富棟は静岡浅間神社の彫刻に取りかかり、以後約40年の間、二代目富昌、三代目富種へと受け継がれ、立川一門による大造営となり、その彫刻は約500種類にも及んでいる。
その40年の間に立川流の名声は各地に広がり、愛知県豊川稲荷、半田の山車や岐阜県高山の屋台なども手がけている。